| 権力闘争に勝者と敗者はつきものです。だからといって、どちらが正しかったかという議論は成り立ちません。かえって、会津藩こそが勤皇に凝り固まっていたというのが定説になっています。薩長は天皇を「玉」という隠語で呼び交わし、それを手中にできるかどうかで勝敗が決まると踏んでいました。錦の御旗を押し立てたのも、戦術的にそれが有利であったからです。 悲しいかな会津藩を佐幕派に色分けした見方は、昭和の初めまでは、会津人が出した本のなかでも一般的であったのです。せいぜい「忠誠九重に達せず」と嘆くだけが精一杯でした。朝廷にやむをえず歯向かうことになった痛恨の極みに涙しただけなのです。しかし、そうした解釈は、白虎隊の真実を曇らせることになってしまいます。会津藩こそ思想的には、もっとも抜きん出た勤皇の藩であったからです。会津藩の祖である保科正之公は、幕府の血縁でありながらも、皇室を崇めることにおいては、人後に落ちませんでした。 二代将軍徳川秀忠の実子でありながら、正之公は、事情があって高遠藩で育てられたのでした。そこで受けた教育は、徳川一辺倒というだけでなく、それに対しても一定の距離を置いて、朝廷に対しても敬愛の念を抱くようなものだったようです。その辺のところはまだまだ解明されてはいませんが、正之公の人となりを理解するには、無視できない背景ではないでしょうか。 わざわざ山崎闇斎を会津に招いたり、吉川惟足の神道に共鳴したのも、当時は正之公がいた会津藩だけでありました。正之公自身も、死後に、神道にのっとって、土津公として祭られることになったのでした。それは徹底したもので、正之公は敬神の念から伊勢神宮の式年遷宮祭の復活にも骨を折ったのでした。一定の期間を置いて、新殿を営み、これに神体を移す行事で、伊勢神宮では二十年ごとに行われています。幕府の天下になって、それが廃れようとしたので、正之公は見るにしのびなかったのでしょう。 正之公で、もっとも特筆されるのは、将軍の名代として上洛し、天皇から杯を賜るという光栄に浴したことです。この誉れに感激した正之公は、その時の参内傘を会津藩の馬印にしました。そして、会津藩士にとっては、その馬印の下で死ぬことが無上の喜びとされたのでした。 |