| 白虎隊とは何であったのか。その少年たちの悲劇を語らずして、私たち会津人は、戊辰戦争を語ることはできません。鮮血に染まらざるを得なかった少年たちの無念さは、今なお会津の山河に染み付いているように思えてなりませんが、白虎隊は最初から死を覚悟で前線に出たのです。 そのなかでも、士中二番隊の十九人は、刃折れ、弾尽きて、飯盛山で自刃しなければならなかったのです。十九人の最期が,あまりにも悲劇的であったために、生き残った会津藩士や会津の人たちが、とくにその死を悼み、後世の人に語り継ぐことになったのでした。白虎隊の精神がことさら力説される時代は不幸であるかも知れません。しかし、一旦緩急の場合に、祖国のために、代々の先祖が眠る墳墓の地を守るために、一身をささげるのは、人の道に反することではありません。一身を犠牲にして愛する者たちや美しい山河を守ろうとするのは、日本人として、いや人間として、あたりまえのことなのです。 城が燃えさかる炎に包まれたことで、殉国の精神で自刃したというのが真相であるにせよ、それ以上に、死をもってしても、西軍をくいとめようとする悲壮感がありました。滅びはあくまでも現世でのことであり、その死は、七度生まれ変わって、主君のために戦うという気概に満ちています。その精神があったればこそ、後の世までも、光芒を放つことにもなったのです。 死して苔むすというのではなく、悠久の大儀に身をまかせることで、死してなお会津藩の名を高めることになったのでした。当時の会津藩士の死についての考え方は、それは見事と言ってよいものでした。会津藩の幼子たちは、介錯を受ける作法を教わって、小さい手を合わせて死ぬ練習までしていたのでした。このために、敵が攻めてきたらどうするかという質問には、いたいけな七歳の女の子までが「そのときは自害するのさ」ときっぱり言い切ったのでした。 |