| 長州の高杉晋作の手になる奇兵隊とはまるっきり違っていました。「凡ソ戦ハ、正ヲ以テ合シ、奇ヲ以テ勝ツ」という『孫子』に由来し、藩直属の既存の武士団とは異なる軍隊として組織されたのでした。それだけに、身分の枠にこだわらないことが優先されました。奇兵隊創設にあたって藩当局に申し出た上申書では、「奇兵隊の義は有志の者相集まり候につき、陪臣、雑卒、藩士を撰ばず、同様に相交わり、専ら力量を尊び、堅固の隊相調へ申すべしと存じ奉り候」という文章が冒頭に掲げられています。 会津藩はそこまで踏み込むことはできませんでした。武士こそが戦場に立つべきであり、その他の階級の者たちは、戦争に関係せずに傍観者と振舞ってくれればい。良く解釈するなら、戦闘員と非戦闘員と区別した上で、戦争に突入するということにこだわったのです。そうすれば非戦闘員の被害は最小限にとどめることが出来ます。会津藩の士族や東軍の客兵では、十数万ともいわれた西軍に抗するのは無理がありました。このため、最終的には、地方御家人の郷士や、農民、山伏を集めた修験者隊、相撲取りを集めた力士隊までも動員したのでした。 どうしても組織を形づくる人間関係を重視した高杉晋作に、軍配があがるのはしかたがありません。強力な戦闘力を持った軍隊を新たにつくるには、用兵術や装備以上にそれが大切なのでした。自発的な意志によって、結集し、階級の枠をも踏み越えるという勢いがあるかないかが、戦いの起趨を決めることにもなったのです。 |