| 新制になった会津藩の各隊は、中規模で行動し、人員は七十二人が原則とされ、その中隊が二つの小隊
、その小隊が二つの分隊から構成されていました。指揮官としても、中隊以下五人の商工が配属されていたのです。士中二番隊にあっても、それは同様でした。隊員四十二人のうち、隊長、小隊頭、半隊頭の五人は成年でした。少年たちだけで戦場に駆り出された訳ではありません。かえって予備軍として保護された立場にあったとすらいえます。 士中隊が、藩公の意向によって、なかなか出陣が許されずに、若松城下にとどめおかれたのも、それなりの理由があったのでした。だからこそ、二番隊の少年たちは、嘆願書を出してまで、死に場所を求めざるを得ませんでした。軍制改革によって、血気盛んな少年たちが取り残されてしまったのですから、こみ上げてくる悔しさをはらすには、それ以外に方法がなかったのでしょう。 また、白虎隊は士中二隊、寄合二隊、足軽二隊からなっていました。士中白虎は、松平容保公を守る近衛部隊のようなもので、二番隊若松城下近くの戸の口原に出陣し、一番隊は甲賀町の郭門の守りに付いたのでした。そして、そこで生き残った者たちは篭城戦にも加わったのでした。寄合白虎隊は一番隊も、二番隊も越後口に出かけています。 |