| 中隊頭の日向内記から、正午までに、武装して集合するように、との回送文を読んだ少年たちは、かねての準備通りに、息を弾ませながら、集まってきたのです。少年たち三十七人は、健気ななかにも、りりしさをたたえての出陣でした。集合地の三の丸では、日向からだけでなく、小隊頭の山内蔵人、水の勇之進、半隊頭の原田克吉、佐藤勇之進から細かい指示を受けたのでした。そして、二の丸から帯郭を通って、北出丸に勢揃いしたのでした。 身なりといえば、白虎隊の踊りや剣舞のような姿ではなく、上は洋服で、下はズボンか義経袴で、銃の使用を考慮したものでした。もはや、刀を抜いてということよりも、射程内に敵を捕らえたなら、引き金を引く。そのための服装に変わっていたのでした。 猪苗代湖の水を会津盆地に落とす、日橋川にかかる十六橋を死守するために、少年たちより一足早く、砲兵三番隊と第二奇勝隊、敢死隊が出陣していきました。このうちの奇勝隊と敢死隊は、農工商や神官、僧侶などの寄せ集めで、まともな武器も持たずに、駆り出されたのでした。銃といってもせいぜい火縄銃程度で、槍、なぎなたの者が多かったようです。それほどまでに、会津藩は、追いつめられていたのです。 しかも、それたの隊は、西軍の攻勢を支えきれなくなって、援軍を求めてきたのでした。二十二日午後三時頃には、十六橋をめぐって、薩摩藩の川村純義隊と、会津藩の第二奇勝隊、砲兵三番隊との間で争奪戦が繰り広げられました。 そのうちに薩摩藩の軍は次々と増強されたために、銃の性能で劣る会津藩は、退却するしかありませんでした。午後五時頃には、西岸を西軍が制圧して、若松城下へ攻め込むにあたっての障害が取り除かれたのでした。 |