シリーズ 戊辰の残像 (33) 笠井 尚著

十 白虎隊 J 〜雨の中大野ヶ原に布陣〜

 会津藩は防衛線を戸の口原につくり、そこで西軍を撃退しようとしたのでした。士中二番隊の少年たちも、そこの守備についたのでした。夕暮れ時になって、本陣の前で松平容保に捧げつつの礼をしてから、勇んで滝沢峠の方に向かったのでした。
 そでに十六橋もまた破られたのに、それも知らずに、前線に赴いたのです。嵐の中での行軍で、ぬかるみに足を取られながら、ずぶ濡れになりながらも、少年たちはひるむことなく峠を駆け登りました。
 ひっきりなしの銃声や砲声よりも、夜の闇をことさらもの悲しくする雨は、母成峠の敗退から、若松城下への西軍の突入まで、三日間にもわたって降り続いたのでした。
 十六橋に陣取る西軍を前に、会津藩は、戸の口原から大野ヶ原にかけて布陣し、その一翼を少年たちも担ったのでした。兵力は約七百人程度で、急ごしらえの寄せ集めでしかありませんでした。
 大野ヶ原に到着すると、敢死隊の者たちが、八幡山に陣地をつくっていました。炊き出しも行われていたので、少年たちは、頼み込んで握り飯を一個づつ分けてもらったのでした。
 敢死隊にとっては、白虎隊が正規軍のような武器を持っているので、側にいてもらいたかったようです。しかし、士族としての自負からか、少年たちは、南の方の松山へ移動したのでした。烏合の衆と一緒に戦うのが嫌だったのでしょう。少年たちが受けた教育が、士族以外の部隊との協同を許さなかったのでした。
 孤立してしまったかのような少年たちは、会津藩の指令本部があり、先鋒総督の佐川官兵衛のいる強清水からの命令を待っていたのです。十六橋が奪われたのであるのならば、取り返せばいいのですが、形勢が悪いのは、少年たちにもひしひしと伝わってきました。
 泥水と雨で汚れてしまった服を絞りながら、前方をにらんだままの少年たちは、睡魔と寒さとも戦わざるを得ませんでした。旧暦の八月二十二日というのは、新暦では、十月七日です。濡れた身体には、秋の夜の寒さはひときわこたえたはずです。男爵山川健次郎監修の『会津戊辰戦史』は、「時に秋雨頬に至り光景轉た簫條たり、諸隊處々に篝火を焚き夜を徹して胸壁を築く」と書いています。  そこにひもじさが加わったのです。中隊頭の日向内記が食料の調達に出かけて行ったのは、その意味では理にかなっています。しかし、二十三日の早朝になっても戻ってこなかったことで、少年たちは、置いてきぼりをくったかっこうになってしまったのでした。  中隊頭がいなくても、小隊頭の佐藤勇之進と山内蔵人がいたのですから、その二人が指揮を執ってよさそうなのに、実際は教導であった、白虎隊士篠田儀三郎の指示で攻撃の火蓋は切って落とされたと伝えられています。



topへもどる   前へ  次へ

サイト内のすべての画像・記事・文章等に関して、無断引用・無断転載は固くお断りします。
リンクはフリーです。リンクをしていただける場合、メールか掲示板でご連絡ください。


ご連絡はこちらまで、お願い致します。
daisuki_aizu@aizubyakkotai.com