シリーズ 戊辰の残像 (33) 笠井 尚著

十 白虎隊 K 〜戸ノ口原で西軍と衝突〜

 戦闘開始直前に、小隊頭までもが、行方知れずになったので、せっぱ詰まった少年たちを鼓舞するために、とっさの判断で、篠田が指揮官になったのでしょう。
 夜明けとともに、前進した少年たちは、十六橋方面からやってくる敵を側面から攻撃できる小高い丘に展開したのでした。そして、街道を進軍する敵を捕捉して、一斉射撃を加えたのです。
 好機を逃してなるものかという判断がそうした決定をさせたのでした。西軍は、この場合は土佐藩が主力でしたが、すぐに反撃をしませんでした。少年たちの居所を確認してから、妨害を除去するかのように、新式の銃の威力を発揮したのです。
 ここで注目されるのは、西軍が会津藩の敗残兵を深追いをしていないという点です。若松城下を目指すという方針があったからでしょう。
 さらに、地理に明るくないことから、罠にはまるのを極度に恐れたというのも、否定できません。海津というまったく見知らぬ土地に足を踏み入れるのですから、脇道にそれることなく、自分たちが確保した点と線を維持するだけで精一杯であったはずです。手間取ってしまう白兵戦というのは、極力避けたかったのです。
 だからこそ、士中二番隊の少年たちが撤収できたのでした。とはいっても、圧倒的な火力の前に、少年たちはほとんどが傷ついていました。
 そして、飯盛山で自刃したといわれる十九士のうちの安達藤三郎、池上新太郎、津田捨蔵、伊東悌次郎の4人は、かなりの重傷を負っていたといわれます。また、飯盛山裏手の白糸神社付近では、西軍の一斉射撃を浴びて、永瀬雄治が瀕死の重体となっていました。
 空腹も、さも限度を越えたものになっており、疲労困憊であったと思われます。会津藩の正規軍はまだ健在であったのに、そこまで思いめぐらす余裕もなくなっていたのでしょう。ただ、刀や銃を杖にして、退却する以外にありませんでした。



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