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『補修曾津白虎隊十九士傳』(大正十五年)のなかで、山川健次郎は、国産奉行河原善左衛門の遺児河原勝治から聞いた話をもとに、何ヶ所かに分散して自刃したという見方を示しました。
「令兄勝太郎君の屍を索めて、飯盛山に行きたるに、二ヶ所に於いて十四、五の屍あるを見たりと話あり、然らば二十士同一の場所にて円座して自刃したるにあらず、死所は二ヶ所以上なるを知るべし、今白虎隊自刃の所とするは、五、六人集合して自刃せるところなり」。
つまり、十六人であったというのも定かではありません。ただし、小グループで撤収してきて、自刃者の最期に共感して、同じ行動をとったという可能性も否定できません。あまりにも遺体の扱われ方がひどいので、それを証明するすべがないだけなのです。河原勝治談によると、「褌もなく足袋もなく皆はぎ取られて全く丸裸」の状態であり、一冬放置されたために、白虎隊かどうかも判別がつかなかったといわれています。
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