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会津若松市が昭和はじめに行なった「白虎隊自刃者調査」でも、新たに三人(その前に石山虎之助を追加)を加えるにあたって、「三人も同山に至り、自刃して果てたることを推知しえるを以て」と書くにとどまったのでした。それでも、二十人のうちのほとんどは、負傷していただろうと推察されます。さらに、疲れと空腹で、歩くのも精一杯であったはずです。
最期の終焉の地にようやく辿り着き、先に逝った仲間の亡骸が横たわっているのに一礼しながら、飯盛山の別な場所で、刀を喉に突き立てた少年がいてもおかしくありません。西軍側には「戸の口村より追撃の途上にて今撃たれたかと思われた三、四名の少年を見たが、敵ながらも気の毒の感に打たれてあった」(『曾津戊辰戦争』)という記録があり、あくまでも闇に包まれています。
しかし、仮に戦死者がそのなかにいても、許されるべきでしょう。名誉の殉節者としてまつられるのに不足はないからです。私たちの先人もそうした判断をしたのでしょう。
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