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白虎隊士中二番隊の自刃者数については、確定が難しく、その人数が確定したのは、明治十三年十一月三日に十九士の追悼碑ができてからです。それ以前は、次の十六士を祭っていたのでした。
井深茂太郎、伊藤俊彦、石田和助、林八十治、西川勝太郎、津川喜代美、永瀬雄次、野村駒四郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、間瀬源七郎、有賀織之助、安達藤三郎、篠田儀三郎、鈴木源吉、飯沼貞吉。
その段階でも、人数は微妙にズレがありました。後になって、やはり、同じ場所で自刃したとされる石山虎之助を含めれば十六人、飯沼も含めれば十七人ということになるからです。十九人に増えたのは、池上新太郎、伊東悌次郎、津田捨蔵の三人を新たに加えることにしたからです。唯一の生存者飯沼もそれにクレームをつけませんでした。
私は飯盛山終焉説を主張したいと思います。傷ついてたどり着けなかった者たちもいたはずです。しかし、二十人のグループに属することになった者たちは、何人かに分かれて行動しても、行き着く先は飯盛山しかなかったのです。飯沼は、遅れてくる者たちの気配も感じとっていたのでしょう。
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