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平成13年5月に出た直木賞作家中村彰彦の『白虎隊』(文藝春秋新書)は、私にとってはあまりにも衝撃的であった。
従来のありきたりの白虎隊像を、根底から覆す革命的な書であったからだ。
中村は、資料を丹念に集めながら会津人が触れたくなかった闇の部分までも、果敢に切り込んでいるからだ。
そして、中村自身が意識したかどうかは別にして、これまでの「白虎隊伝説」に挑戦状を突きつける結果になった。
白虎隊については数多くの本が出ている。しかし、その大半は、大正6年(1917年)5月1日が初版の平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の域を一歩も出ていないのである。
■実像に言及
白虎隊を語る者のほとんどは、19士の潔い死に沈黙を余儀なくされてきた。闇を照らす閃光のまぶしさに、白虎隊の実像に言及するのをためらってきたのである。
これに対して中村は、平成5年(1993年)に発見された士中二番隊士酒井峰治の「戊辰戦争実歴談」、明治23年(1890年)に若松町在住の平民二瓶由民が出版した『白虎隊勇士列伝』に基づいて、真相をあぶりだそうとした。
「戊辰戦争実歴談」のなかでは、士中二番隊の隊員たちが「無用の銃を携えて、戦に赴けと命ずる者、何人ぞ。宜しく殺戮して余らも自殺せん。」と激怒したことで、別銃を支給されたという新事実が書かれている。
時代遅れのヤーゲル銃しかなかったのを、武具役人にかけあって、ヤーゲル銃よりは小型で軽量、弾ごめもしやすい“馬上銃”を持って戦場に向ったのだった。
■銃へのこだわり
土佐を中心にした征討軍と正面から衝突しながら、士中二番隊がかろうじて撤収できたのは、その馬上銃のせいもあったのではなかろうか。
少年たちが至近距離で白兵戦を行えば、ほぼ全滅したに違いないのである。
中村の銃へのこだわりは少年たちがどのように戦ったを裏付けることであり、なおざりにはできない問題なのである。
また、酒井峰治のその文によると、一人はぐれてしまってから、やはり士中二番隊の隊員で野良着に身をやつした伊藤又八から声をかけられたという。
普通であれば、戦闘が続いているのだから二人は入城しなくてはならないはずである。
けれども、伊藤は忽然と姿を消してお城には入らなかったという。
さらに白虎隊研究の走りとされる『白虎隊勇士列伝』によると、十九士の一人である西川勝太郎は、気丈夫な性格から十六人の介錯の任にあたり、自分が自決する前に通りかかった農民に亡骸の始末を頼んだという。
■先鞭をつけた書
にもかかわらず、その農民は約束を果たさないばかりか、息絶えた少年たちの身ぐるみをはいだのであった。唯一蘇生した飯沼貞吉ですら刀を奪われている。
このため、中村は「盗賊が実在したことは動かしがたい」としながら「死者への冒涜行為を働いた地元民もいたのだった」と残念がっている。
白虎隊やその周辺のネガティブな部分は、これまでは忘却の彼方に追いやられてきた。それを正視する勇気が求められる時代がやってきた気がしてならない。
中村はその先鞭をつけてくれた。「白虎隊伝説」を降りまわすのではなく、ネガティブな部分についても無視すべきではないのである。
福島民友:2003年2月26日掲載(会津史研究家・笠井 尚著)
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