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高橋淡水の『壮絶悲絶白虎隊』を初めて手に取ったのは、一昨年春のことであった。会津若松市の古書店でたまたま見つけたのである。
お土産で売られていたような安っぽいつくりで、ザラ紙のような表紙に墨文字で題名が書いてあるだけであった。
薄汚れていたので、一旦はためらったが、その題名にひかれて手に取ってみた、というのが正直なところである。
■初版は明治42年
本の奥村を確認して、なおさら私は興味をそそられた。初版が明治42(1909)年と書いてあったからだ。
大正6(1917)年に出版された平石弁蔵の『會津戊辰戦争』よりも前に世に出たことになる。しかも、『會津戊辰戦争』 の参考文献にも上がっている幻の名著なのである。
拾い読みしてみると、手際よくまとめられており、白虎隊のエッセンスがすべて詰まっているように思えた。とくに書き手が同時代人のせいか、少年たちの死を悼む気持ちが随所に感じられた。
まず、伝えたい何かがあって一気呵成に書かれたに違いなかった。『壮絶悲絶白虎隊』という題名が端的にそれを物語っている。不憫に思えたからこそ、筆をとることになったのだろう。
■ひととなり不明
読み進んでいくうちに、私は一人でも多くの人に読んでもらいたい、という思いが強くなってきた。
しかし、不思議な事に著者高橋淡水については、人となりがほとんど知られていないのである。
東京に出かけたおりに、わざわざ国会図書館で調べてみた。ようやく探しあてた復刻本でも、著者の欄に「経歴詳らかならず」という一行しか書かれていなかった。まるきり謎に包まれているのだ。
高橋は「藩国のために献げたる熱血」に涙を濡らし、磐梯山にかかる月や猪苗代湖畔の秋草に託して、しみじみと往時を偲ぶのみであった。
薄ぼんやりながら、私は、旗本の御家人か何かで、明治維新後に没落して新聞記者になったのではないかと思えてならない。
会津気質を取り上げるにあたっても、藩祖保科正之以来の教育を重視する。そして「利を後にして道を先にし、才よりは人格を重んじ、知るよりは行ないを先にするという流儀でありました」と断言している。
しかし、少年たちに「傷をつつみ、血をすすって敵軍に抗し、手断ち、足砕けて血に倒るともひるまず」という気概があっても、雨露にあたり、食糧もままならない疲れ果てた身には城に戻ることもかなわなかったのである。
■淡々とした筆運び
私がもっとも心打たれたのは、飯盛山で自刃した少年たちのうちでも、遅れてきたといわれる4人のことである。ようやく逃げおおせてきたのに、がっくりとしたに違いないからだ。
高橋はその部分を淡々とした筆運びで書いている。それがかえって涙を誘うことになるのであるが、「死体が散乱し、目もあてられない状態でありましたから、4人もその後を追いて自殺しました」というだけである。ようやく仲間と再会がかなったのに、もはや言葉も交わせなくなってしまったのだから、衝撃は大きかったろう。
生も根も尽き果てて、倒れるようにしてその場で自刃したのであれば、なおさら哀れである。私にはその悲壮な姿が目の前をよぎってならない。
白石弁蔵著『會津戊辰戦争』では先に自刃した者の数を17人、遅れて来た者の数を3人と書いている。
これに対して、高橋説では先に自刃した者の数を16人、遅れてきた者の数を4人としている。唯一生き残った飯沼貞吉の手紙に書いてあることを重視するからである。
明治42年の段階では関係者の多くが生存していたことは確かであり、高橋はそれらの人たちからも取材しているのである。
ジャーナリストとしての高橋の仕事は現在でもなおざりはできないのであり、“幻の名著”といわれる由縁もそこにある。
福島民友:2003年3月5日掲載(会津史研究家・笠井 尚著)
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