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財団法人白虎隊記念館々長 元中央大学経済学部教授
早川 廣中
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| 解説 財団法人白虎隊記念館々長 元中央大学経済学部教授 早川 廣中 …… 高橋淡水のこの本は、私がたまたま会津若松市の勉強堂という古本屋で見つけました。奥付によると、出版は明治四十二年で、平石弁蔵の『會津戊辰戦争』が出たのは大正六年です。平石も参考文献にわざわざ上げていますから、教えられるところがあったのでしょうね。 早川 明治四十二年までは、會津戦争の関係者による、それぞれの思い出の記録としての文書はいくつか出ていますが、白虎隊単独でまとまったものとしては、高橋淡水が初めてだと思います。その点でも高く評価されていいですね。戊辰戦史全体を取り扱った本としては、明治三十七年に北原雅長の『七年史』、明治四十四年に山川浩の『京都守護職始末』がそれぞれ世に出ていますが、白虎隊に的をしぼったわけではありません。とくに、忘れてならないのは、事実を寄せ集めただけでなく、感動を与える書き方をしていることです。 …… この本を読んでみて興味をそそられたのは、會津藩の松平容保が京都守護職を引き受けるにあたって、佐久間象山や横井小楠をブレーンにしていたという文章です。佐久間象山が暗殺された理由に、京都から彦根に御所を移す策略をしていたからというのがあります。「玉」(ぎょく)という隠語で呼ばれていた天皇をめぐっての動きですが、會津藩のなかにも賛同者があったことは明らかになっていますから、高橋がそれを知っていた節もあります。 早川 佐久間象山や横井小楠も開明派ですから、會津藩の改革派であった、山本覚馬や広沢安任と接触があったようです。藩としてよりは個人的なレベルだったようですが、それを取り上げているあたりは、取材力があったからではないですか。 …… 二十人の中で、一人だけ蘇生した飯沼貞吉に関する記述の中で、お城に戻って戦ったというのは、明らかに間違っているわけですが、その辺はどう思われますか。 早川 飯沼貞吉の行動については、平石弁蔵著の『會津戊辰戦争』で語られていることが真実でしょう。私が館長をしている白虎隊記念館には、平石家からお預かりしている手紙があります。執筆の際の資料になったものです。東大総長になった山川健次郎、同志社大学の創設者新島襄の妻山本八重子、中野竹子の妹の中野優子といった人達ばかりでなく、飯沼貞吉からの手紙も含まれています。そこに書かれていることからしても、篭城戦に加わった形跡はありません。高橋が勘違いしたのは、飯沼が平石以外の人には黙して語らなかったということがあったからでしょう。 …… 白虎隊士中二番隊の隊長であった日向内記については批判的でないですよね。少年達を置き去りにしたことも不問に付されています。 早川 日向のことも、飯沼証言が定説になっていますが、私は後方の金堀に食料を取りにもどったまま行方知れずになったと思っています。明治の後半までは、生き残った関係者に負い目が付きまとって、当時のことを口にするのがためらわれたのでしょう。 …… 白虎隊に対する評価も時代とともに変わって来ていますよね。 早川 白虎隊については、昭和の初めから昭和二十年の敗戦までの軍国主義の高揚期と、それ以前とは大きな隔たりがあります。高橋の時代は、人間味のある表現になっていた気がしますが、第二次世界大戦では、特攻隊のバックボーンに白虎隊がされてしまいました。 …… この本では、西郷頼母も卑怯者扱いはされていませんね。 早川 西郷頼母は長生きしていますから、それに、會津藩の筆頭家老であったことから、明治時代は正当な評価をされていたはずです。軍国主義の時代には隅に追いやられましたが、戦後になってまた再評価の気運が高まってきたのではないですか。 …… 西郷頼母一族の自決は、卑怯者呼ばわりされたことが伏線になってお城に入りにくかったからという事情もあったのではないですか。 早川 その通りでしょう。ただ、西郷頼母本人がなぜ死を選ばなかったというと、自分の口にした意見が正しかったのを確かめたかったのではないですか。どん底の貧しい生活をしていても、生き抜いたのには理由があったはずです。 …… 西郷家や飯沼家、さらには南摩家の下僕が登場しますが、その点はいかがですか。 早川 戊辰戦争全体に言えますが、多くは当事者である武士や、その縁者の話にもとづいています。庶民の感情を大事にして書いたために、多くの人達に愛読されることになったのでしょう。 …… 幕末の會津藩に関しては、数多くの本が世に出回っていますが、傾向としてはどういうことが言えるのでしょうか。 早川 戦後は小説家の活躍の影響がありました。司馬遼太郎さんの『王城の護衛者』によって、會津藩への同情的な見方が定着しました。それが最近の直木賞作家中村彰彦さんの『白虎隊』(文春新書)にまでつながっています。日本の歴史学会の方では、近年になって、会津若松市で明治維新学会の全国大会が開かれるなど、幕末の會津藩の研究が盛んになってきています。注目されるのは、明治維新学会編の『幕府権力と明治維新』(吉川弘文館)のなかに、家近良樹さんの『一会桑の成立と崩壊』という論文が掲載され、それが平成十四年一月二十日に『孝明天皇と一会桑』(文春新書)として出版されたことです。 …… 司馬遼太郎の純粋一徹な會津藩というのではなく、もっと違ったアプローチをしているわけですか。 早川 孝明天皇のバックアップを受けて、一は一橋慶喜、後の将軍徳川慶喜です。会は會津、桑は桑名で、一会桑政権が樹立されて、それが七年間続いたというのです。一橋家には軍隊がありませんから、會津藩がその中心になったのでした。桑名藩は、藩主の松平定敬が、松平容保の弟ですから、一翼を担うことになりました。 …… 『壮絶非絶白虎隊』は幻の名著といわれています。絶版になってしまって、手に入れにくくなったこともあります。書き手の高橋淡水についても、明治大正の文壇に大きな足跡を残しているわりには「経歴つまびやかならず」という謎の人物です。現代文に書き改めた今度の復刊によって、白虎隊の少年達がより身近に感じられるのではと願っています。 |