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新撰組顛末記(一)@

 新撰組は、幕末という、羅針盤のない過渡的な時代に、自らの剣の腕を頼りに突進した浪士の集団であった。会津藩預かりの佐幕派の武装集団とだけ決め付けるのは、早計である。
 階級性を重んじていたはずの幕府が、こともあろうに浪士を募集したのだった。しかも、それは公然と行なわれたのである。後にも先にもそれ一回だけであった。私はそこに幕府のほころびを見て取ってしまう。
 そもそも、浪士募集の建白書なるものを提出した者がいたのだ。講武所剣術教授方の松平主税助忠敏である。わけもなくたむろする浪士が、一旗上げるために、攘夷を叫んで極端な行動に走る。失う物がない者たちであり、そのエネルギーは計り知れない。それが幕府に不満を持つ薩摩や長州の過激派と連携して騒ぎを引き起こす危険性があった。
 浪士募集は、未然にそれを防止するための妙案として浮かび上がってきたのだった。建白書の提出日は、文久2年(1862年)10月 18日のことである。
 時あたかも朝廷の勅旨が江戸を目指していたのである。天下大騒乱を防ぐには、浪士たちを幕府の配下に置くことで、主導権を確保できるという読みもあったのだろう。
 上総介は、徳川家康の六男である松平忠輝の血統で、捨扶持三百石であった。譜代大名の上席にもつける身分である。幕府内での発言力もそれなりにあった。政事総裁松平春嶽を動かして実現にこぎつけたのだ。
 しかし、上総介はあくまでも表向きであった。背後で暗躍し、浪士組みの生みの親となったのは、庄内藩清川村の郷士であった清河八郎であった。
 だからこそ、春嶽は浪士募集の沙汰を出すにあったって、わざわざ旧悪免除条項を書き加えるのを忘れなかったのである。
 清河は、捕吏の首をはねたのか、それとも故意に喧嘩を売った町人を無礼討ちにしたかは定かではないが、いずれにせよ、罪人であった。幕府は、清河を無罪にすることと引き替えに、浪士たちのまとめ役として抜擢したのである。
 青天白日の身となり、攘夷決行の浪士を集めるために、清河は幕府に利用されている振りをしていただけであった。その真意は違っていたsのである。
 清河については、服部之総『黒船前後・志士と経済』のなかの一文が全てを語り尽くしている。
 「庄内の酒造家で豪農で郷士だった家柄の長男に生まれ、江戸へ出て文武の道場を開いていた。ブルジョア地出身のいわば白皙長身、満々たる覇気と女郎買いをしたことまで日記につける律儀さがある」。
 マルクス主義者で「明治維新をブルジョア革命ではなく、天皇の絶対主義権力の樹立」とみる講座派に属していた服部の言葉は、ともすれば教条的になりがちだ。
 しかし、清河に関しては、人となりを見事に描写している。新撰組が誕生するにあたって、そのきっけかけをつくったというだけではなく、討幕浪士の代表格であった人となりを問題にしているからだ。
 文久2年4月23日に伏見寺田屋事件というのがあった。薩摩藩の島津久光の上洛に合わせて、700の同士をもって、伏見と江戸で事を挙げ、京都所司代と江戸家老を殺害し、朝廷の世にしようという計画があった。その打ち合わせに、寺田屋に集まっていた薩摩藩の尊攘派の者たちを、久光が家臣に命じて討たせたのである。その時の尊攘派のネットワークを構築したのが清河であった。身辺にただならぬものが漂っていても不思議ではないのである。
 将軍家茂の入洛の護衛という任務が与えられると、募集が本格化した。文久3年(1863)の一月には、近藤勇らも応募し、2月8日には250人が京都に出発した。
 この段階での近藤一派は、天然理心流の近藤道場の土方歳三、沖田総司、藤堂平助、山南敬助らである。近藤をはじめ、いずれも一隊士に過ぎなかった。このほか、香具師の親分の祐天仙之助や、水戸藩脱走の芹沢鴨一派がいた。
 近藤一派や芹沢一派は、ほとんどが浪士と呼ぶにはふさわしくない、農民や博徒。にわか侍になることを望んで加わったのである。
 あてがはずれた幕府は、上総介を引っ込めて、鵜殿鳩翁を浪人取扱、山岡鉄舟を取締役に任命し、何とか形を整えたのだった。
  清河には最初から思惑があって、京都に到着すると、早速浪士一同を新徳寺に集めて、朝廷への建白書を示した。幕府の配下に入ったはずなのに「禄位は受けておらず、尊皇攘夷の急先鋒たらんとするにあり」と主張したのである。
  「幕府の御世話にて上京仕り候へども、一点の禄相受け申さず候間、尊攘の大義相願ひ奉り候。万一皇国を妨げ私意を企て候輩これあるに於ては、たとへ有司の人たりとも、聊か用捨なく譴責仕り度き一統の赤心の御座候」。
  幕府に楯突くような文面にもかかわらず、一応は全員がその建白書に署名した。近藤一派も「尊皇攘夷」という主張そのものには異議がなかったからだ。
  ただ、アジテーターとしての清河の影響力も、具体的な方針が次ぎ次ぎと示されると、一枚岩ではなくなった。
  清河は、自分たちの思いが朝廷に達したので、江戸に取って返し、攘夷を決行する腹づもりであった。これに対して、近藤や芹沢鴨は、滞京の将軍を守護しつつ、攘夷の時を待つべきだという立場であった。どちらにせよ、攘夷が叫ばれていたのは注目に値するが、その対立が新選組結成につながるのである。
  その辺の経過については、近藤勇自身が郷里の知友にあてた手紙で推察できる。
 
「志大略相認書」と名づけられたその手紙は、江戸に帰って夷狄を斬ることになれば、願ってもないことだが、それが決まっていないままで戻るのは困るという文面であった。また、そこには、京都守護職であった松平容保から「奸物誅戮」を指示されたということも記されている。
  新選組が結成されたのは、幕府に忠誠心があったというだけでなく、京都において武勇をあげることを考えていたからなのである。関東に帰れば、一介の農民に戻るしかないのだ。
  浪士団の分裂劇は、思想的な立場の違いよりも、農民から真の武士に脱皮をしようとした近藤一派が、王城の地で、それなりの役割を果たそうとしたのである。
 同時に、水戸の天狗党の影響を受けた芹沢一派も、係争の地京都で、やはり活躍の場を見つけ出そうとした。お互いの利害はそこでは一致したのだった。浪士組250人のうちの、わずか18名程度が京都に残留したのである。
  在京の幕府首脳は、過激派が暗躍する地にとどまっていれば、どのような事態になるか見当がつかない。それを恐れて、一日も早く将軍の東帰を実現させようとしていた。攘夷決行にはためらいがあったとはいえ、その一点においては、清河と大差はないのである。
 近藤らの残留組は、将軍が京都にとどまり、攘夷の戦争を指揮することを望んでいた。そして、新撰組はその先兵たらんとしたのだった。過激派と評された者たちとそれはまったく同じ主張である。だからこそ、芹沢鴨が浪士連盟意見書を作成し、老中板倉勝静の宿へ乗り込むことにもなったのである。
 当初は、壬生村の八木源之丞宅を根城にしていたことで、壬生浪士と言われていた。近藤が「天狗」になったというので、土方や沖田が心配したのはその時のことである。
 芹沢が水戸天狗党に近く、その一派には、新見錦や平山五郎らがいた。それだけに、近藤も心を許しあった時期もあったようだ。

新撰組顛末記(一)@ 笠井 尚


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