『義経と皆鶴姫伝説』

 NHKの大河ドラマは今年「義経」である。皆鶴姫の伝説というのは、義経を慕うお姫様の悲恋物語である。頼朝との間が険悪になった義経一行は、ひそかに奥州の藤原氏を頼って、平泉を目指した。そのときに会津を通ったというのだ。義経一行を探し求めて会津に入ってきたのが皆鶴姫である。皆鶴姫は鬼一法眼の養女で、我が子帽子丸と、腰元の香樹更級、侍の野辺地下部と末若の主従五人であった。
 都から四十日もかかってようやく会津に到着したばかりなのに、大勢の者たちに襲撃されたのだった。義経ゆかりの者たちというのがバレたのか、はたまた夜盗に命を狙われたのかは定かではない。土地勘もなく、ただ右往左往しながら防戦一方であった。離ればなれになるまいと固まっていたとはいえ、多勢に無勢であり、最愛の帽子丸が適の手にかかって池ノ端沼に投げ入れられたのである。会津郡西柳原、現在の会津若松市柳原あたりでのことである。
 それでも皆鶴姫主従は先を急いだ。義経に会いたい一心がそうさせたのである。しかし、河沼郡難波の地にまで辿り着くと、悲しい知らせを耳にしたのだった。「五日前に義経が高舘で終わる」と聞き、生きる拠り所を失った皆鶴姫は、もはやこれまでというので、難波の池に身を投げたのである。十八歳であった。
 その死をより一層悲劇的にしたのは、義経が健在であったということだ。会津郡の地頭河部太郎高綱の尾山舘にあり、もてなしを受けていた。やり切れない悲報に接して、義経はそこの池に一体の卒塔婆を建てた。そして安至尼と号したのである。健気な最期に涙して手を合わせたのはいうまでもない。
 義経は、松林の僧を導師とし、姫が肌身離さず持っていた子安地蔵を本尊とする一字を創建したとも伝えられる。皆鶴姫難波寺と称したという。付き従ってきた者たちのうち、香樹更級はそこで尼となり、亡き姫の黒髪を携えて都に帰った。さらに、侍の野辺地下部と松若の二人は、会津の地にとどまって、永く墓守を務めたといわれる。皆鶴姫伝説によって、会津若松市や河東町には鏡山、帽子沼、難波池、呼橋などの地名が残ることにもなったという。
 皆鶴姫は1230年に執筆された『義経記』には登場しない。京都の一条堀川にいた鬼一法眼の末の娘が、秘蔵の兵書を義経に見せたことになっている。ただし、その名前は記されていない。鬼一法眼は義理の弟の湛海に、義経を討たせようとしたが、目論見はあっけなく潰えた。その姫があらかじめ義経に内通したので、心構えができていたからだ。
 二人は、夫婦同様であったこともあり、義経はその姫のもとを離れがたかった。しかし、一族の者を手にかけたことから、悲しい別離となったのであり、義経も「そでを涙にぬらした」と書いてある。そして、取り残されたその姫はあられもないことを口走るようになり、薬効もあらわれずに死んでしまった。皆鶴姫よりも2歳若い16歳のことである。
 皆鶴姫伝説はその第二幕のようなストーリーである。鬼一法眼の養女という設定で、藤原成實の子で、母の桂ノ前が、夫が亡くなった後に鬼一法眼に嫁いだので、娘として育てられた。『義経記』では、鬼一法眼の屋敷での話で終わっているのに、それが結末ではなかったというのだからかえって切ない。静御前でなくて、物の怪につかれてしまったと評された姫が、我が子や腰元、侍とともに会津にやってきて、義経に会うこともなく、望みを果たせずにこの世を去る。人の世のはかなさを教えてくれてはいないだろうか。


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