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書評『会津の武田惣角』 簗田直幸 会津がこれほどまでに刺激的なことはない。近世から近代に移行する激動の時代に、真の武道に命を賭けた一脈の人がいたという事実だ。 武士道の時代に武士道を忘れ、武士道が滅びざるを得ない時に開花した花が、武道の華であった。しかるにその花の開花もまた、明治維新の激しく燃え尽きた血流の盆地に、無惨にも苦しく、それは血縁をも断ち切らんとした辛く、苦渋に満ちたヒドロタでの格闘だった。 会津三十三観音札所の結願寺、御池田・西光寺のかたわらに建つ墓は、半ば傾き、会津人さえもその名を知る人は少ない。ましてや合気道の生みの祖、合気の原型を引き継ぎ、伝えた男・武田惣角の人となりを語るものは、数えるほどにすぎない。だが武術家といわれる、剣道、柔道にたけた猛者たちの中に、脈々と受け継がれている武道があり、幕末・明治・大正と、日本列島を震撼させた武道家の三代にわたる、激涙 の会津の襤褸の一群を忘れることはできない。 『会津の武田惣角〜ヤマト流合気柔術三代記〜』(著・池月映)には、激しく燃え尽きた武道家の魂が、哀しくも雷音となって現代に聞こえてくる。 殺傷能力を失った武士道の明治期、剣術においても第一の人となり、柔術においても第一の人となった武田惣角。さらには武士道ばかりか、修験道、陰陽道をも修め、実践修行・巡視指導に務め、武道の志のある者のみに信をもって教え、マスコミを寄せつけず、七十歳を過ぎてから全国紙に紹介され、世間の人に知られるようになった時も、惣角の技に衰えはなく、松平容保拝領の紫房紐のついた羽織を脱いで、猛者たちの挑戦を受け、体に触れるか触れないうちに次々と相手を投げ飛ばしていたという。昭和十八年四月二十五日、八十五歳の破天荒の生涯を閉じた武道家武田惣角は、四尺九寸丈の会津が生んだ会津人だった。 武田家は、国継以来、武田信玄の盟友葦名盛氏の遺命によって使え、武田家伝来の体術を松平容保の時代まで、陰となり、城中にあって、御式内という、殿中護身武芸を継承してきた家柄であった。身分は御池田の宮司ではあったが、殿、五百石以上の重臣、小姓、奥女中だけに指導をする役目の門外不出の御留技であった。 祖父惣右衛門は、神道家、陰陽師、ヤマト流武道家としての多彩な才能を発揮した。 父惣吉は、六尺の相撲取りとなり、松平容敬より白糸の四股名を拝名し、大関を二十年間務め、剣術、槍術、棒術の免許皆伝で、二刀流の大関白糸は、戊辰の役では力手組組長として京都黒谷へ、山本覚馬より砲術を習い、力士隊隊長として大砲で攻撃。かの有名な山川隊の入城には、会津彼岸獅子を先頭に、大砲を分解してツヅラの神輿をつくり、堂々と入城し、容保より「さすが武田殿」と感状を頂いたという。 子の惣角も、砲煙と血飛沫の中で育ち、時代と武道家武田家の誇りに鍛えられたのだった。 また西郷頼母と武田家との絆についても、御式内を通じた人物像が描き出され、頼母論に新たな一石を投じて、気持ちのよい一書である。 (了) |
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