会津白虎隊
   
   

  篠田儀三郎は篠田兵庫の二男で、家禄は二百石でありました、其の幼少な時から至つて正直で虚言を大層嫌ってゐました、其の六七歳の頃友達と日を決めて螢狩りの事を約束してゐました、處が其の約した日暮前に大風大雨がありましたので、生憎蛍狩りに思はしくない日でありましたが、時刻になって儀三郎が螢籠を提げて参りますと、友達は驚いて、『期樣な雨天に螢の飛んでゐやう筈がない、何で態々遣つて來たのか』 と問へば、儀三郎は之に答へて、『君と一旦約束してゐたから來たのだ』と云って、其の約束を解いて歸つたと云う事があります。 又或る時友達の家に寄合ふ事を約束致しましたが、其日に至って絶えず雹が降りしきつて寒さが殊の外烈しかつたので、今日は誰も來ないと思つて友達も、悠々と構えてゐると、儀三郎は足駄を手にして徒跣で來ましたので、友達は大層驚いて、其の後は篠田の正直と云へば誰も知らないものは有りませんでした。

 井深茂太郎は會津の世臣井深森之進の長男で、家禄は三百石でありました、茂太郎は極めて落着の善い少年で、日新館に入ったのは十歳の時でありました、其頃若松城の南湯川と云ふ處に地蔵堂がありまして、其の石像に無禮すると奇態な事になると云ふ噂がありましたが、茂太郎は子供心にも何で其様な事があるものか、と思つて、或る闇の夜に胆力を練らうと思つて、夜半頃に其處に往つて徒らを試みて、凝つと物の様子を探つて夜明に至るまでブラブラと其邊を歩いてゐましたが、何の事もなかつたので、歸つて人に向かひて、『世の中にお化けなどゐるもので無い、つまり憶病者が心で拵へるのだ』と意氣捲いてゐました。かく極めて剛胆な處があると思ふと、一方には極めて優しい心掛がありました、或日七八歳許の幼児を伴れてる老爺さんが、大層窶れた姿をしてヨボヨボと路傍に寝てゐる様を見て、哀れに思つて何うしたのかと尋ねますと、老爺さんは泣く泣く自分の不幸を物語つて聞かせますので、茂太郎は愈々憐に思つて、自分の持つてゐたお錢を出して、之に與へて慰めて遣つたと云う事があります。

 石山虎之助は會津の世臣井深數馬の二男でありますが、出でて同藩に百五十石を食む石山彌右衞門の養子となりました記憶の勝れた少年で、昔話を聞いて英雄豪傑の事になると、我を忘れて勇むでゐたと云う事であります、十一歳の時に日新館に入つて、文武の勝ぐれてゐたと云ふので、篠田等と共に度々賞與に預りました。  其頃廓内の御用屋敷と稱する官舎の前を、夜中に通るとお化けが出ると云つて、人々が畏れてゐましたが、或夜虎之助は數名の友達と寄合つて、鬮を引いて當つたものは、夜半に御用屋敷の前に行く事を約束致しました、そして、鬮の結果は虎之助に當りました、折節空は掻曇つて、雨はショボショボと降り、夜はシンシンと更けて、天地は恰も墨を流したるが如く、極めて物凄い時でありましたが、虎之助は躊躇せず、直ちに御用屋敷の前に往つて証據に小?を刺し置いて歸りましたので、剛憺の少年だと其頃誉められてました。

 伊藤俊彦は同藩新作の長男で、家禄は五人口でありましたが、家は富み營えて大層施する事を好むでゐました、俊彦は幼少の時から系圖を見て、祖先の功名に憬がれて、自から功名を立てヽ家名を汚さじと心得てゐました。

 石田和助の父は龍玄と云つて、農家より起つて會津藩侯の侍醫でありました、嘗て福島懸知事をしてゐた日下義雄は和助の兄であります、十歳日新館に入つて屡々賞與になりました、和助は幼い時から酒が好きで、學校の歸りには親類に立寄つて、手づから酒を煖めて獨酌數杯に及むで歸ると云ふ有樣でありました。 和助の家は固と農家から出たので、學校友達が動もすると和助を辱めて、『成り上がり』と嘲りますので、和助は笑ひながら、『僕の家は農家から侍醫になつたのだから、全く成り上がりに相違は無い、しかし、君達の家は高位の祖先から出て其の禄位は祖先に及ばないのだから、祖先を辱しむる『成り下がりもの』だと言返へすので、流石の友達も之には閉口して仕舞つたと云ふ事であります。

 池上新太郎は青龍寄合半隊長與兵衞の子で父の出陣している時、母に願つて父の軍に從つてゐましたが、白虎隊編入の命があつたので、喜むで軍に從ひました。

 林八十治の父は忠藏と云つて日新館の先生でありましたが、父は常に他人の子を教育するものは、能く己の子を教育する事が出來なくては仕方がないと云つてゐました、從つて八十治を教育するに寛嚴宜しきに叶つてゐました、  西川勝太郎の父は、半之亟と云つて、母は神尾織部の娘であります、津川喜代美は高橋誠八の二男で、百五十石取の津川瀬兵衞の養子となつたのであります、嘗て母と一緒に中田觀音に詣でた時と、誤つて毒犬の爲めに其の拇指を噛まれたので、喜代美は犬毒の全身に及ぶを避けて、直に其の拇指の一端を切落して、母の憂いを案じて手拭を裂いて繃帯して素知らぬ顔をしてゐたと云う事であります。

 津田捨三は半藏の子で、家禄のは十三万石三人扶持でありました、家は昔大谷吉隆から出たのでありますから、捨三は幼少の時から其家を辱かしめざるやうにと勵むでゐました。

 野村駒四郎は清八の三男で、禄は百三十石でありました、父親が早く歿くなられたので、母親の手に育てられてゐましたが、幼い時から剛憺な少年と云はれてゐました。

 簗瀬勝三郎は源吾の三男で家禄は三百石でありました、其の八九の頃、家僕と松茸狩に往つて、辨當を松の木陰に置いて、方々の茸を探がした後、非常に餓じくなつたので、辨當を濟ましやうと思つて、元の處に來ると、何時の間にか烏に捕られてゐたので空腹で溜りませんでした、そこで、家僕は其邊に植えてある大きな柿の實を盗むで來て、勝三郎に渡しますと、勝三郎は何處で貰つたのかと問ひますので、家僕は恐る恐る其の出處を述べました、スルト勝三郎は如何に飢えたと云つて人の物を取つてはならない、お前は御苦労ながら其主を探がして過るがよいと云つた事があります。

 簗瀬武治は久人の次男で、禄百五十石でありました、武治は一見したところでは、恰も婦女子の樣な柔しい顔でありますが、極めて元氣な少年で、嘗て五六人の學校友達と若松中を散歩してゐ時、市中に火事が起こりましたので、武治は之を見るや否や、友達と一緒に火消を指揮して大層骨を折りました、軈て火が鎮まつた後、我家に歸ると父母は、武治の毛髪が半焦げに成つて、剰さへ着物が所々燒けて、身體に火傷してゐる樣を見て、何故かと尋ねますと、武治は一伍一什を話して、大層兩親から賞められたと云ふ事がある。

有賀織之助は、會津の世臣權左衞門の長男で骨格の逞い少年で、九歳の時薙刀を揮つて、其の捷い素振りには人を驚かしたと云ふ事があります、 故に其の劍を撃つときは劍が鳴つて勢が誠に凄じい有樣でありました、日頃約束を重んじて、又人と喧嘩爭をする事がありませんでした、或時十人餘の朋友と打連れて、鶴沼川に游泳に參りますと、折節雨後の事とて水勢?々と岸を噛むで、其勢矢の如く誰も泳ぐ者がありませんでした、然るに織之助は身を躍らして、之に飛び込むで見ますと、激浪の爲めに押し流されるヽ事數町で、ヤット九死一生の中に岸に着きました、スルト友人は其處に寄集つて、何故其の樣な冒險をするのかと尋ねますと、織之助は答へて、好むで冒險するのではないが、大丈夫は難に當らなければ、膽力を練る事が出來ないからであると答えましたので、朋友は其の元氣に驚いたと云ふ事である。

  安達三郎は小野田助右衞門の三男で、家は三百石取りでありましたが、心の奥には勇氣のある健げな處がありました。

 
鈴木源吉は玄甫と云ふ藩醫の二男で、十歳の時日新館に入つて、後出陣する時、家兄は其の愛藏する冬廣の短刀を與へて、若し負傷の爲めに擒となつたら、早く之を以て自害して辱められない樣にしろと申しましたので、源吉は之をおし戴いて潔く家出致しました

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