笠井尚の読書日記
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2月2日 経済学は門外漢なのに、読んでいて面白いのは森嶋通夫である。ありきたりな議論ではなく、そこに学問的な挑戦があるからだ。『なぜ日本は没落するか』というのも、スリリングである。今日も国会の論戦を聞いていて、これでは滅びるしかないという思いがした。森嶋は東アジア共同体に活路を見出そうとしている。中国との提携こそが、日本の生きる道であるとの確信があるからだ。私は森嶋の説に全面的に賛成である。しかし、それは根本においては、大東亜共栄圏の焼きなおしであることも確かだ。日本はそこに手を出して失敗した。過ちを繰り返さずに、うまく中国や韓国、さらには北朝鮮、台湾と新たな枠組をつくれるか。それにしても、気になるのは、日本の保守派からは、黙殺されていることだ。戦争中に「東洋平和のためならば」と力んでいたのをよもや忘れたわけではあるまい。一国にとどまるのではなく、東アジアという視点からしか日本の経済を語ることはできないのである。森嶋は今後の日本の方向性を示したのである。 11月28日 詩人でもあるまいに、私は詩を口ずさむのが好きだ。そんな私の愛読書が浅野晃編の『現代日本詩集』である。序詩を堀口大学が書いている。浅野は共産党から転向した人で、日本ロマン派にも加わっている。革命的ロマンティズムが日本の美心に回帰する。日本人の悲しい運命を看取するのは、私だけだろうか。わずか二百数十ページの新書版の冊子。しかも子供向けなのに、それを開いただけで、すぐに癒されてしまうのはなぜだろう。今は山村暮鳥の「日本」という詩を口ずさんでいる。「葦の葉つぱの 朝露がぽたりと おちこぼれてひとしずく」。そのひとしずくによって日本が誕生したというのだ。そして、「わたしは此処で生まれたんだ また此処で最期の息をひきとって 遠祖と一しょになるんだ」という言葉に救われた気がするのだ。世界は一つになるべきだろう。しかしながら、日本人としての一体感も大切にすべきなのである。『現代日本詩集』には、そのほかにも、大木敦夫や伊東静雄、さらに石川啄木といった詩人たちの作品も掲載されている。とくに大木敦夫のあのリズム感にも魅了されてしまう。文語調の語り口であるのに、古さは微塵もなく、切々と訴えるものがあるからだ。また石川啄木の「ココアのひと匙」も、刃は諸刃の剣であるという、悲しいテロリストの心情が伝わってくる。 11月20日 池田龍紀という人に会ったことはない。確か一度機会はあったのだが、都合がつかずにお流れになってしまった。70年代に新右翼の論客として、論争ジャーナルにも執筆していたと思う。戦後体制を転覆するには、秩序が崩壊してもしかたがないと主張していた。新左翼のような物言いは、私にとっては新鮮であった。その池田が『ロスト コマンド ワールド』でテロリストを論じ、正当性と正統性を区別している。かつては戦争そのものにも、ルールがあり秩序があった。それが崩壊してしまったのだから、とんでもないテロが横行することになる。合法性など無視されてしまっている。軍人でもない民間人の首を切断し、放置する。テロリストは自らの正当性だけを確信し、手段は選ばなくなっているのだ。あえて秩序を破壊するためにテロに走るのである。南ベトナムでは、ベトコンによって万に近い数の村長や県の役人が殺された。イラクでも同様の事態になっている。秩序を成り立たせしめている古来からの個人に求められる徳目は意味をなさなくなっている。しかも理不尽なテロは、国境を越えて地球的な規模でのテーマになっているのである。池田は正統性につらなるテロを容認することで、正当性によるテロを批判している。三島由紀夫に象徴されるような非合法的な行為であれば、正統性に根ざすことになるというのだ。「三島由紀夫らは戦後という特異な構造と状況にあって秩序の紊乱が定まるところなしと判断した。その上で檄文の理義に基いて自裁した。それを狂気だと批判は集注したものの、生き死にに関わる問題の所在を自決をもって示したのである。彼らが我が身のひきかえに示そうとしたのは正統性とは何かであった。その意味では文化として最も特徴的でありながら、提起した問題性は地球社会の人類に対しては普遍性を帯びていたのである」。三島らの行為が非合法である限り、裁きを受けなくてはならない。それ以前に自裁する。そこに順逆不二の日本的テロリストの心情をみるのである。池田と言葉を交わすことは、これからもないだろう。しかしながら、気になる在野の思想家であることだけは確かである。 11月17日 神谷忠孝の『保田與重郎論』によって、若き日の保田が、故郷の大和桜井を見直すために、蘆原、粟津、山中、山代、永平寺、金沢、糸魚川、新潟を経て佐渡に渡ったことがあるのを知った。私はここ一、二年ほど、会津から出発してそのルートで奈良に出かけている。古代の精神を全身に受けて育った若者には、鄙びた農村地帯にはなじめなかったようだ。逆に私は、万葉の世界に圧倒されて、古代が目の前をよぎるような不思議な雰囲気を味わった。保田の大学時代の歌に、「ひたぶるに生きむ心定めかねへーゲルの書に朱線引きぬ」というのがある。西洋の思想に救済を求めたにもかかわらず、情としての心が置き去りにされてしまう。それでもヘーゲルを読むしかないとの悲壮な覚悟が吐露されている。いつしか日本人としての失われた心を取り戻そうという気持ちになるのは、自然のなりゆきであった。それははかない夢であっても、裏切られることがあっても、いやかえってそれだからこそ信じようとしたのだろう。美とは燃焼しつくす刹那を語る言葉であり、すぐに汚泥にまみれてしまうからだ。私にとっても大和桜井の地は、夢を紡ぐにはふさわしい土地であった。しかし、保田と違うのは、過去の神々を招き寄せなくてもよいほどに、まだまだ日本は平和であるということだ。日本の悲しい危機に直面し、美しい調べにのせて没落の歌を口ずさんだ保田には、夢見がちな大和桜井の歌人になるしかなかったのだろう。 11月15日 奈良に出かけて来た。大和桜井の長谷寺は、初めてだっただけに印象深かった。日本ロマン派の保田與重郎もそこで生まれている。しかし、驚いたのは、保田について知っている人がほとんどいないということだ。話をしたことのある人もいるにはいたが、「そんなに偉い人であらはったんですか」と逆に質問されてしまった。奥歯を抜いて、衰弱しきった保田像しか語ってもらえなかった。それには息子が大酒のみであったという尾ひれまでついたが。戦後になって戦犯扱いをされた保田は、ひっそりとその地で暮らしていたのだろう。書く場所も与えられず、しかたなく自分で雑誌『祖国』も発刊したのだった。あの不思議な文章は、日本語の可能性に挑戦したように思えてならない。地元では受け入れられなくても、その業績は燦然と輝いている。大岡信、桶谷秀昭、橋川文三らによって取り上げられもした。とくに、桶谷の『保田與重郎論』は、私にとって忘れられない青春の書であった。地元で受け入れられないという孤高さこそ、日本ロマン派の巨匠にふさわしいかもしれない。やはり保田は淋しい文人であったのだ。 11月10日 星亮一の『山川健次郎伝』は、わずかな時間で読むことができた。ただ、ちょっと気になる箇所がいくつかあった。作者と私の立場が一緒なわけもないので、目くじらを立てる必要もないが、会津の人はその本から健次郎の人となりを想像してしまいがちなので、少しばかり苦言を呈したい。健次郎は単なる教育者であったのではない。保守主義者として、この国を憂いたのである。自分と同じ年頃の白虎隊の少年たちが、先んじて死を選んだからだ。死に遅れた者として、死者の無念さと思いを代弁しようとしたのだった。乃木大将と並び評されるのは、乃木もまた、死者への負い目を背負っていたからだ。萩の乱は、健次郎の師である奥平謙輔が、前原一誠とともに決起し、二人とも斬首されている。そこに加わったのが乃木の実弟である玉木正誼であった。血を分けた弟は、吉田松陰の叔父である玉木文之進の養子になっていた。反乱に加わるように兄を説得しに来たのに、乃木はわざわざその話を陸軍法官に聞かせ、玉誼を死に追いやったのである。明治国家建設のために、非情を貫いたのである。そして、裏切った死者の視線に耐えなければならなかった。保守主義とはそこに立脚することなのだ。また、千里眼事件については、迷信の流行を憂いて立ち会ったというように書いている。とんでもない間違いだ。健次郎は。エール時代の経験から、超常現象に興味を抱いていたのであり、それを信じていたのだ。合理主義に毒されていなかった。超能力を否定するのではなく、かえって立証しようとしたのである。さらに、健次郎が昭和天皇の教育にあたったという厳粛な事実も不問に付すわけにはいかない。天皇中心の国体を守ろうとしたのも確かだ。国が敗れて奴隷にならないためには、国のまとまりが必要だと考えたのだ。だからこそ、忠君愛国を演説して回ったのである。光があたる部分ではなく、陰の部分にこそもっと目を向けるべきではなかったかというのが私の感想だ。 11月9日 10月1日 9月28日 |